山科は世界三大美女の一人として知られる小野小町や、赤穂事件の中心人物であった
大石内蔵助、武将の豊臣秀吉など、歴史上の人物と関わりが深い地です。
その他、自然が美しいフォトジェニックな景観など、山科独自の隠れた名所がたくさんございます。
「京都は知り尽くした」とお思いのお客様にも山科は十分味わっていただけます。
蓮如上人ゆかりの地
春は染井吉野の大樹からなる桜天井が美しいことで人気の本願寺山科別院。1478 年に本願寺第 8 代蓮如上人が建立し
華麗を極めた山科本願寺は戦国時代焼き討ちにあい、その時、蓮如上人の御廟所は山科の地に残りました。
その御廟所をお護りする御堂が 200 年間ありませんでしたが、山科講が土地の寄進をした事から現在の形になりました。
山科別院
本願寺山科別院は四季折々の表情を見ることができます。
また、京都市が次世代に伝えておきたい「区民の誇りの木」に山科別院の 3 本の樹木「アラカシ」「クスノキ」「イチョウ」が選択されています。
本願寺 中興の祖 蓮如上人ゆかりの地がこの山科別院です。蓮如上人は本願寺を再興、現在の本願寺派 興隆の礎を築いたことから「本願寺 中興の祖」と呼ばれています。
小野小町ゆかりの地
山科区小野は、平安時代に小野一族が栄えた場所です。
小野小町が晩年を過ごしたお寺には、朝晩顔を洗った井戸や、1,000通ものラブレターが埋められている小野文塚などがあります。
随心院
随心院は真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、
一条天皇の正暦二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。
絶世の美女として知られており、美人の代名詞とも言える人物だが、平安時代の女性のご多分に漏れず、生没年をはじめその素性はほとんど明らかにされていないなど、その人物像には謎が多い。
大石内蔵助ゆかりの地
大石神社(おおいしじんじゃ)は、赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る神社。
江戸時代には江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、1868年(明治元年)明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺
に勅使を遣わしこれを弔って以降赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつです。
大石神社
赤穂浪士(あこうろうし)は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士である。
毎年12月14日には、「山科義士まつり」が開催され、地元ゆかりの赤穂浪士の義士たちを模した行列が町を練り歩く姿を見ることができる。
豊臣秀吉ゆかりの地
874(貞観16)年に、理源大師・聖宝が醍醐山上に草庵を結んだのが始まりで、
醍醐山全体が寺域。平安時代に建てられた醍醐寺中世まで隆盛を極めていたが、
室町時代に起きた応仁の乱によって五重塔以外の建物が全焼してしまいました。それを復興したのが豊臣秀吉です。
また、「醍醐の花見」が開催された寺としても知られており、
現在は約10,000本の様々な桜が点在し、毎年約22万人が訪れる人気の桜スポットです。
醍醐寺
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成しました。内部の壁画に日本最古の空海像が描かれており、京都府下最古の木造建造物として国宝にも登録されています。その他、総床面積1千坪の霊宝館に於いて、国宝6棟、重文10棟を含む92棟の建造物及び信仰対象の諸尊像を除く一切の文化財を管理保管しています。
三宝院の表書院の横には、豊臣秀吉が贅をこらして自ら設計した、池泉回遊式の大きな庭園があります。秀吉は、三宝院を荒廃から復興させるにあたり、まず着手したのがこの庭園。どこを切り取っても美しく見えるよう設計されているこの庭園は、金沢の兼六園などの全国の有名日本庭園の設計時にも参考にされました。
天台宗五箇室門跡のひとつ
天台宗五箇室門跡のひとつで、開基は行基、本尊は毘沙門天。寺伝によれば、703年に御所の北方に創建された
出雲寺が起源で、江戸時代に山科へ移転しました。春は桜が、秋は紅葉が美しいことで有名です。
毘沙門堂
4月上旬~中旬には高さ約10メートル、枝張り約30メートル、樹齢150年を超える大枝垂桜が見事に咲き誇ります。
ホテルから毘沙門堂の中間あたりに山科疏水がございます。秋は紅葉した木々が美しく、疏水沿いをゆったりと散歩するのがおすすめです。